脱ぎ散らかし日記

29さいになっちゃった。

「愛」という言葉にめちゃくちゃに何かを詰めて

映画「愛がなんだ」を観ました。

仕事が終わった17時半、近くにある映画館にかけこみ、ドリンクもポップコーンも買わずに着席。

原作は角田光代さんの同名小説。未読です。

(500)日のサマー」や昨年公開した「勝手にふるえてろ」、「ジョゼと虎と魚たち」なんかが大好きな人は絶対刺さる映画だろうという前評判をもとに、大きく期待をしていきました。以下、ネタバレありで感想です。

 

観ていて、テルコよりむしろマモちゃんの一挙一動やナカハラくんの選択のほうが、私には苦しく感じました。

映画の中のテルコは、その愛情の発露の仕方においてちょっと異常で、滑稽。マモちゃんは、掴み所のない、少し頭の悪くて、しかも頭のゆるい男の人。冒頭10分で2人の人間性はそんな風に感じ取れます。

中目黒のクラブに行って、想い人スミレの横でせっせと小間使いのようなことをし、隠キャ、いやキョロ充の鏡みたいな所在無さげな行動をするマモちゃん。スミレにつれない態度をとられてもめげずに追いかけ続けるマモちゃん。

視聴者はここで初めて、「マモちゃんは人を好きになるとテルコと同じ属性の人間なのだ」ということに気付かされます。スミレのために奔走するマモちゃんはダサくて、馬鹿馬鹿しくて、ただただイタい。ただ、ここでテルコが「ダサい」「馬鹿馬鹿しい」と思って幻滅してマモちゃん切り捨て、なんか朝日が綺麗だな〜鼻歌歌いながら帰宅エンドであれば、観客もいくらかのカタルシスを感じることができたでしょう。

やっぱそうだよね、観客が感じてる「こっち側」が正しかったよね、と。いわゆる更生エンド。

でも、テルコは違うのです。そんなマモちゃんを、真っ直ぐ見つめ、情けなくも、かわいそうにも思わないのです。もはや呆れるとか幻滅するとか、テルコにとってマモちゃんはそんな次元にはいないのです。

だってテルコはいつも言ってました、「わたしはマモちゃんになりたい」。テルコにとってマモちゃんはもはや「自分」になりすぎて、「他者」の枠から外れてしまっていました。(だから目で見える「血縁」で縛られた「お母さん」「お姉ちゃん」「いとこ」、そんな関係でもいいと例をあげたんだと思います。)

自分を愛してくれない「他者」には見切りをつけられても、「自分」を嫌いになることはできない。

これは尽くす女の末路じゃなくて、ある意味、自己の成長ストーリーなのかもしれないなって思いました。もはやスポ根。トライアンドエラーPDCA。最初は「マモちゃんに好かれる」だった目標がスミレの登場により「マモちゃんが好きな人に好かれる」になり、マモちゃんに断絶を言い渡されたことにより、「マモちゃんの恋人になる」ことに見切りをつけ別の男性へいくという、あっさりと別離を選んだのです。これをチェックからのアクションと言わずしてなんという。しかもそこに一切の躊躇が感じられないのです。マモちゃんから断絶を言い渡されたとき、テルコが「マモちゃんなんか好きでもなんでもない」「もっと発展的な話をしようよ」と言います。まさに、テルコはずっと、自分とマモちゃんの関係性が未来永劫続くことは前提の上で、発展的な目で捉えていました。当たり前です、「自分」は不可分なのですから。テルコは劇中でより良い形を考える。その状況でのベストを選び続けています。一見自分が幸せになれないことでも、それが選べてしまうのです。

多分、マモちゃんとの別離は、お腹痛いときにケーキを食べるのを諦めるような、「自分」を維持するためには当たり前のことだったのでしょう。

 

ここまで来ると、もうどうやってテルコに感情移入すればいいのでしょう。私は全然できなかった。超人かおまえは。

普段恋人に「好き」「愛してる」と伝えますが、その「愛」に一体何を詰め合わせているのでしょう。それは実は、「自分を認められたい」とか、不純物だらけなのかもしれないな、と思わされました。

 

ナカハラくんは劇中後半で「幸せになりたいですね」と言ってこの「自己愛」ゲームを脱落していきます。それに対して「バーーカ!」と返すテルコは、最後までナカハラくんの気持ちはわからなかったのだと思います。

テルコのマモちゃんへの想いは、決して綺麗事ではなかった。生生しくて、苦しいものでした。でもそれは、逆に我々にとっては荒唐無稽で、理解はできても到達できない綺麗事のように思えてしまいます。

だから彼女は劇中で、嬉しくて泣くことはあっても、悲しくて泣くことはなかったのかなあと。彼女のマモちゃんへの思いも、ジメジメしたものには見えませんでした。マモちゃんからスミレへの想いの方が、ナカハラくんから葉子ちゃんへの想いの方が、よっぽど人間臭くて、共感することができるのだと思います。

 

葉子ちゃんに「寂しくて仕方ない時があるか」と尋ねるテルコに対し、「寂しくないわけない。私をなんだと思っている」と憤慨する葉子ちゃん。

ナカハラ君の思っている完全無欠の葉子ちゃんなんていなかったのです。

みんな寂しいんだよ。だから寂しいって言うのに意味なんてない。

これを地でいける葉子ちゃんはやっぱり強くて、ナカハラ君やテルコとは違う人種なのかもしれません。でも、寂しさを感じることはあるのです。ナカハラ君は、それを認めることができなかったのかもしれない。「寂しい夜自分を思い出してほしい」という願いに対し、自己否定になっちゃうから。それに気づいてしまったナカハラ君はテルコの「なりそこない」となりました。

 

マモちゃんのために身を引き、スミレさんと仲を深めるよう、飲み会の途中でイケメン君と抜け出すテルコ。多分あのあとテルコはイケメン君と寝るのでしょうし、付き合いもするでしょう。ただそれでも、テルコの「もう1人」、マモちゃんの存在がい続けるのだと思います。

テルコはマモちゃんになりたかった。それは終わることのないレースです。ゴールテープの付いていない競技場をテルコはこれからもずっと走り続けるのだろうなと思いました。そして最後に、ふと我に返ったように言うのです、「なのになんで、私はまだ田中マモルになれていない」

 

というわけでいろいろ感じるところがあって、すごくおもしろかったです。気づきがたくさんあった。

ナカハラくん、最後葉子ちゃん来てくれてよかったね。

スミレさんはテルコに対して並々ならぬ思いがあったのは確かだったと思うんですが、原作に出てくるかな?

 

あと、マモちゃんのいう「なんで俺なんかに親切にするの」と言う言葉に、「親切って…」と絶句するテルコ。

私も見ながら、よくもまあぬけぬけと…って思いましたが、事実、究極の自己愛になってしまったそこに他者はおらず、テルコのやることなすことは全て「自己投資」。他者に向けた愛じゃないやつを親切っていうのも、なかなか相応しいのではと感じました。あとは、優しさ、とかね。