脱ぎ散らかし日記

29さいになっちゃった。

生まれた意味とか生きてく理由とか考えるのやめた話

川上未映子の「夏物語」を読んだ。

自分で蹴りをつけようと悩んで、蹴りをつけられたと思ったことを追体験させられるような話だった。物語を自分に帰結させてしまうのはあまり良い読み方ではない気がするが、読了したので備忘として感じたことを残す。

なんというか、要するに、私はこういう人間なのだ。

 

子供を作ろうと配偶者と決めて、昨年の夏頃から妊活に励んでいる。妊娠の兆候はまだない。

私は彼と出会うまで、出会ってからも、子供を産むことにはかなり抵抗があった。結婚する際夫にも「私は子供を産むことができないと思う。それでもいいか?」と確認を入れていた。(というか、そもそも人生で結婚する気もなかった。)

「子供を産むことは、不幸の再生産だ」と、私自身がずっとそう思っていたからだ。それはこれまでの実体験からくる、「私のような人間から生まれてくる子供はどうせ幸せになれない」という一種の自意識過剰な悲観でもあったが、シンプルに、たとえ私のような思いを抱かなかったとしても、「生まれることは幸せなのだろうか」という問いについて、自信を持ってYESと答えることができないことからくる自論だ。

作中で善百合子が言う、「ねえ、子供を生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えないの。生まれてくる子供のことを考えないの」「その、『生まれてみないとわからない』っていう賭けは、いったいだれのための賭けなの?」という思いは、私もずっと、これまでの人生の中で、生活の中で、何度も何度も考えたことだった。人の人生に責任をとれないわたしが、子供を作ることはできないな、いつもそのような答えに行き着き議論は終了。そのパターンの繰り返しだった。なんなら、正気を保った人間なら、子供を作ろうとは思わないだろうなとさえ思っていた。

生まれてこなきゃよかった、と、幼少期から何度も何度も数えきれないくらい思って生きてきた。早く死んでしまいたい、消えたい、終わりたいと、一時より頻度は減ったが今でも時々そう思う。(それすら自身の甘えなのだと嘆く日もあったが、それだとあまりに議論が成り立たなくなるので「人には人の地獄がある」「辛さのレベルはどうあれ私がそう思っているのは事実」と割り切ることにした。そう割り切るようになるにも随分時間がかかった。)

だから、「生まれてきてよかったな」という思いより、「生まれない方が痛いこともしんどいこともなくて幸せだっただろうな」という思いの方が、生の実感として明白に自分の中にある。一番しんどかった時期を抜け、今となっては楽しいことは山ほどあるのに、ずっと「もうよくない?」とどこかで思っている。「ここまで頑張って生きてきたんだから、もう終わってよくない?」と。

幼い時から、生きている意味をずっと考えていた。自分がいない方がうまく回る世界が想像できる環境にいたのもあり、その問いかけはなんだかもう癖のようなものになってしまっている。

子供を産むか産まないか(そもそも機能的にできない可能性だってあるのだから、個人的には「挑むか、挑まないか」であるが)を改めて配偶者と考えるとき、自分の中にずっとあった「生まれない方が幸せなのでは?」という問いに一つ解答をみつけなくてはいけなかった。

 

結論から言うと、私は「考えるのをやめた」。

まず、私が「生まれない方が幸せなのでは?」という問いを永遠に繰り返すことができるのは、その答えが絶対に出せないからだ。だって私は「死ぬこと」はできてももう「生まれない」ことはできない。箱の中に入れる猫も、そもそも箱さえも存在しないのだ。そうなるとこの仮説は、もうどこまでいってもただの願望にしかなり得ない。「生まれない方が幸せなのでは?(こんなクソみたいな人生よりマシであるといいな)」であり、「それあなたの感想ですよね」で一蹴されてしまうものなんだろう。

次に、そもそも生きていることに意味はあるか?という問いに対してだが、「多分ない」。この世界に人生の意味など考えることがない人が多いだけで、意味があるかどうかを重要視する人が少ないだけで有耶無耶になっているが、それが答えなのではないかとなんとなくそう思っている。

だから、そもそも前提が違っていて、幸せになるために生きていなくてもいいのだ。生まれると生まれないを悩むのは「どちらがより幸せなのか?」という土台がその問いかけにある。そんなことは、多分考えなくていいのだ。というか、考えてもどうしようもないのだ。だから、辛いのも悲しいのも寂しいのもまあ元を考えれば意味がなくて、意味がないのであればそもそも産む私にもそれを考えて逡巡する必要性も必然性もないのでは……?などといろいろなことを考えて、わけのわからないほどの頭痛を感じ、結局「うーーーん、わからないから、やってみるか」ということになった(多分正気を失った)。ある日風呂場の中でそう呟くと、何だか自分の中でストンと落ちたのだ。

マジで思考停止。どうしたの?正気を失ってるのでわかりません。

この物語を読んで、今になって改めて考えても、生まれてこなきゃよかった、と自分の子供に言われたら、何と答あるのが正解なのか分からないな。今までの私なら「うーん、多分それ正解!気づいちゃったかぁ。私もそう思うよ!」というのが相槌になってしまう。

私は、その言葉にどうやって責任を取ればいいんだろう。その方法は正直ちっとも分からない。そして、そんなことを言われると思うと既にとても怖い。

だけど、子供を産むことに挑むと決めたからには答えなくちゃいけない、「そんなことはない」と。そんな世界にはさせないと、そのためにあなたに私がいるんだろうと、何度も何度もそう伝えなければいけないのだと。自分のわがままで他人をこの世に産み落とすのであれば、その答えを貫き通して、全部「本当」にしてしまうしかない。

私もすでに、作中の夏目夏子が言うように間違いを選んでしまっているのだ。だから、間違いを選んでいることを自認して、その次にすべきことを、自分にできることを考えるフェーズに移そうと思う。選ぶか選ばないかにはもう、「選ぶ」と答えを出してしまったのだから。

 

改めて書いてみたけれど、あまりにまとまりのない、統一性のない文章だ。私の脳内と同じ。「ぐだぐだ言って、結婚したら考えが変わって産みたいってなったんでしょ?」と言われたら「そうですね」という答えになってしまう。だって、そうだし。

だから何度でも考えよう、こういうふうにしようと自分で決めたのだと思い出そう。

 

奇しくも同じ作者の、「すべて真夜中の恋人たち」という物語で作中の聖という女性が、お腹の子に呟く「色々あるけど、こっちの世界もまあ悪くないわよ。はやく生まれてこい」という言葉にずっと支えられている。それは私の祈りでもある。そうあればいいなと、この子の世界をそういう世界にしてあげようと、そう感じるのが現時点での「私」なのだと、今は、そう書き残しておく。