脱ぎ散らかし日記

29さいになっちゃった。

あの山を越えても何もない

あゝ、荒野 後編見てきました。

彼氏と。

あ、この先の話もした。泣いてしまったけど少しスッキリ。

 

結論言います。

◯すげ〜〜〜〜〜〜〜〜よかった!!!!!

◯日曜日に見る映画ではなかったけど。

菅田将暉ハンパねえ〜〜〜〜〜〜〜〜!

以上。

 

前編と比べて中だるみ〜〜とか、あれ?矛盾してね?とか、このエピソードの必然性如何?とか、まあいろいろあったけど、総括すると最高だった。今年そんなに映画見れてないけど、今年見た映画ナンバーワン。最近ハズレが多かったから特に。

最後ふぬぬ〜〜〜〜!?ってなったけど、まああれはあの終わりでよいかもしれん。原作読んでないからなんとも言えないけど。

思ったこと乱雑ながらにまとめる。当然ながらにネタバレがある。

 

最高の対比

新宿新次とバリカン健二。

ひょんな事から出会い、兄弟分として仲を深めていくにつれて、たどり着いたのは対極の存在。リングにて対面で向かい合える関係。でもよくよく考えたら、最初からず〜〜っとこいつら、対極なんですよね。

親に捨てられた新次と、親に搾取し続けられる健二。

父親のいない新次と、母親のいない健二。

すぐに手が出てしまう新次と、手どころか言葉すらすぐ出てこない新次。快活で表情がくるくる変わる新次と、赤面することしかできない健二。

女やコーチや全てを巻き込んで力に変えていける、まあどちらかと言えば器用な新次と、コーチにもあまり期待されず土壇場で女と(他人と)繋がることをも拒否してしまう健二。

新次みたいになりたいという健二と、自分は自分だと言える新次。これは親との関わり方もあると思う。結構根深いと思う。

身軽で何発でもジャブを打てるけど一発が軽い新次と、当たれば一発で相手をノックアウトしてしまう健二。

あとこれは劇中で言ってたけど、全てを憎んで憎んで殺してやると最後まで息巻いてた新次と、そうなりきれなかった健二。

最初からずっと対極にいて、だからまあ、たどり着くところは自ずと見えていたのかな〜〜とか思いました。同じところにいても、見えていた景色は最初から最後まで180度違っていたんだろうな。だからこそ健二は同じ景色を見たかったのかもしれません。繋がりたいって、向かい合いたいを超えて同じ方向を向きたいということだったのかななんて、思った。これまで誰ともすれ違うことしかできなかったから。恵子とは同じ方向を向ける想像がつかなかったのかなあ。

いっつも後ろをついていってたのに、ジムを移籍してからいつものランニングコースですれ違うシーンね〜〜おばさんああいうの好きだよね〜〜グッとくるよね〜〜〜〜ンン〜〜〜〜あとこういう対比芸がね〜〜好きだからね〜〜〜〜

 

主人公はどうあがいても「新次以外」

いつか担任の国語の先生が言っていたんですけど、「物語のなかで大きく変わった人が主人公なんだよ」と。だから走れメロスの主人公はメロスじゃなくて、セリヌンティウスでもなくて、涙を流して改心した王様なんだ、って。いまでもあんまり納得いってはいない論なんですけど、その言葉のせいでなんとなく今でもその視点で見てしまいます。

そう思うと、悩んだり苦しんだりしても終始一貫してこいつ殺すと言い続けた新次ではなく。あの2人ならば主人公は健二だなあと。逆に言えば、なにがしかの変化があった新次以外の人たちが主人公だったのではなかろうか。新次については舞台上の「装置」としての色合いが濃すぎるように見えました。誰にも似てるわけじゃないけど鏡、みたいな。あの真っ直ぐな瞳に映った自分を、誰もが見てしまうのではなかろうか。立ち返ってしまうのではなかろうか。

 

 

憎むのは体力がある人がすること

ある手記?かなんかで見たことがあるんですけど、企業の過失で家族を亡くしたご遺族の手記だったと思いますが、「私たちはあなた達を憎むのをやめます。憎み続けるのはとても疲れる。許すことはできないけれど」

リュウキ先輩が言ってたの、それなのかなあって思いました。許したり、忘れたりする方がずっと楽なんだと思う。誰かを憎いと思う気持ちを持ってずっとジメジメした日陰にいるのって、どんな形であれお日様のもとにいる人たちより何倍も苦しいのでしょう。人間自分の嫌なことは見たくないよね。というわけで、すがりたかったって気持ちはなんとなくわかるような気がするなあと思いました。

何事も(基本的には)因果応報なわけで、リュウキさんや新次だってそうだし、健二のお父さんだってそうだし、憎しみって体力がかなーり必要で、だからこそそれが生きる力になるのかもしれないけれど。健二のお父さんが最後健二に肯定的な言葉を呟いたのも、命の終わりが近くて力が残っていなかったからかもしれない。

新次と近かったのはゆうじでもリュウキさんでもなく、健二のおとっつぁんかもなあ。だとすると健二にとってはとんでもなーい皮肉。目指していたのは父への回帰かあ。

思いつきでそれっぽいことをのたまってしまった。

 

おもしろかったです!

つべこべ言ったけどね、個人的にはね、こういう、最愛の親友といつか対立してしまう系のストーリーだとね、絶対考えてしまう。「このままじゃダメだったか?」このままずっと、東洋闘拳ジムで兄弟として切磋琢磨していけるんじゃダメだったか?っていう。

でも、こういう人たちは無理なんだろうね。いい意味で堪え性がない。歩みを止めることができない。それは死ぬことだから。死んじゃうから。新次は死んでたまるか絶対殺すっていってるから。だから、無理なんでしょう。

最後のシーン、無音で新次の鋭いまなこに射抜かれるシーン。すごくよかったなあって。菅田将暉は天才だほんとに。

あとなんだ、三人で海に行くシーン、ああいうのほんと好きで、同時にこの幸せは長くは続かないって悟るシーンでもあって、こういうの好き〜〜ア〜〜でもやめて〜〜ここで殺してくれ〜〜ってなってしまいました。靴捨てるシーンは思った通り流れ着いてしまったけど、あそこで芳子が泣く意味は、そのあとなんの未練もなさそうにアパートに靴が捨てられてたことに意味を持たせるシーンだったのかもしれませんな。

多分さ、あの壮絶な試合の後も、あの人達の人生って続くじゃないですか。それ、やばいですよね。大事件だってさざ波と同じで、なんとでもなるんじゃん(私は最後死んだのはお父さんだと思っているので、)生きてるってすごいよね??すごくない???ちょ……生きてるやつら大丈夫??生きてる?(混乱)みたいな

必死に何かを得ようと、越えようと、変えようとする人の姿を見ると、こちらまで何かに突き動かされてしまいそうになるなあ。それは全くの錯覚なのだろうけど、その錯覚を原動力に明日を変えられるから、映画とか小説とかフィクションに意味があるのだと思います。

以上、今日の総括でした。